2022/9/24日記

Twitter をやっていた時に、「Twitter 構文」の一種とも言うべき文章の書き方が自然に癖になった。というのは、「このパズル、面白い」のように、主語と述語の間の助詞を省く構文である。こういう変な癖がつくのは良くないなー、と思っていたのだが、この構文は、捉えようによっては優れているかもしれない。

例えば、SNS上で「このパズルは面白い」という風に書くと、「じゃあ他のパズルは面白くないのか」みたいな反応が返ってくることがある。こういう返しは「拡大解釈」と呼ばれる類のもので、捻くれた返しである、と一蹴することもできるが、付けこまれる隙がないに越したことはない。ここでの隙というのは、最初の文章に想定しない解釈の余地がある点である。多義文的にならないような、他の文章表現ができると嬉しい。例えば、少々冗長だが「(面白いパズルは他にも色々あるけれど)このパズルも面白い」という書き方がある。助詞「も」の前提となる「その他のパズル」の定義する範囲が不明瞭なので、線引きをする意味が生まれてしまって、そこが隙になりそうだ。また、「も」を使うと、暗黙の内に「面白さ」の度合いが「同程度」であるという意味を表現してしまう気がする。「このパズルが面白い」は、単体の文章として書くと不自然な感じがするし、これはこれで変な部分を強調していそうだ。個人的には、助詞「が」には、「(数多のパズル達の中で)このパズル(こそ)が(一番)面白い」みたいに、最上級の意味の印象がある。

誤解の余地のない、純粋に主語と述語だけの文章を書くというのが意外と難しい。そこで、助詞を省いてしまうか、あるいは、「このパズルを解いてみたけど、面白かったよ」・「このパズルが面白かったから紹介させて」のように、文章の情報量を増やしてしまう。こうすると、いくらか誤解の余地が薄れるように感じる。Twitter構文というのは荒んだSNS社会における苦肉の策の産物だったのではないかと、思う。

実際のところ、どれだけ工夫をしても誤解の余地は残りそうだ。単純に「面白いパズルとして言及をした」という事実だけで、「言及されなかったパズル」との差をつけてしまう。なんとも面倒くさい。