なぜパズルを作るのか考えるpzdcの2023 Jan. 7

なぜ私はパズルを作るのか。私は本当にパズルを作るのが好きなのだろうか、と考えることがある。

パズルを解いたり眺めたりするのを(多くの場合に)楽しいと感じるのは当然のことで、私の中で決着がついている。なぜなら、それらは楽しく感じさせるために作られてきたものだから。しかし、クリエイティブなことが好きなのか、というのはよくわからない。そのメカニズムを理解するのは、ずっと難しいと考えている。

気づき

パズルについて何かの気づきがあった瞬間が好きという面はある。気づきがあった瞬間に、何か脳内で刺激が発生して喜びにつながるといった人体レベル、無意識レベルでの効果があるのかもしれない。あるいは、より理性的、経済的な意味でメリットが得られるから嬉しく感じるのかもしれない。そういう気づきは、解いたり、眺めたりする時よりも、考察している時や作っている時の方が得られやすい。なぜなら、考えが及ぶ範囲が広くなるので、より多くの発見をしやすくなる。受動的に触れるだけでなく能動的に行動していくため、記憶に残りやすく、したがって快楽が持続しやすく、経済的なメリットが持続する意味でも嬉しく感じられる。これは、パズルを作る行動原理として説得力がありそうだ。しかし、私の感覚によると、これはどちらかというと言い訳である。私はそんなに真面目な人間ではない。確かに気づきを得るためにパズルを作る場面はあるが、気づきを得たいという気持ちだけで私はここまでパズルに執着できないと思う。

前向きvs.後ろ向き

私がどういう時にパズルを作るか、と考えてみると、いくつかの場合がある。「こういうパズルを作ったら面白いかも!」といった思いつきで作ることもあれば、なにかうまく説明できない暗い義務感のようなもので作ることもある。前向きな作問スタイルと、後ろ向きな作問スタイルがある、と感じている(「前向き」「後ろ向き」という言葉が適切かはわからない)。前向きな作問スタイルが取れるというのは結構なことだが、私自身は個人的には、後ろ向きな作問スタイルに向き合っていきたい、と考えている。

感情の吐き出し

後ろ向きな作問スタイルの一種として、感情の吐き出しというのがある。なにか強い感情に支配された時に、自分の中に燻っている行き場のない思いを言葉として表出することが(色々な理由から)できないことがある。そういう場合に、パズルを吐き出せば、自分の中でぐるぐる回っている悪循環の流れを、少しだけ変えることができるような気がする(もちろん、これはその場しのぎで、根本的な解決にはならない)。こういう目的でパズルを作る場合、作ったパズルを誰かに解いてもらえるかどうかは本質ではない。ただ自分の中から「それ」を出すことができれば良い。それを解いた人がいたとして、パズルから何かを読み取るということは、基本的に期待していない(むしろ正確に読み取られたら怖いし、困ることもある)。これは私にとって重要な動機だが、「パズルを作ること自体の楽しみ」ではないような気がする。吐き出すこと自体の喜びであるし、パズルである必要性はない。感情を吐き出すやり方は他にもたくさんあって、例えば他人を嫌な思いにさせるような方法もある。パズルの作問のように表面上エンターテインメントの形を見せれば、多くの場合において他人に迷惑をかけないだろう。ただし、実際には吐き出しの効果が薄く、吐き出したはずのものがいつまでも自分の中に溜まり続ける。感情の吐き出し先のエンターテインメントとして、例えば楽器を演奏したり、絵を描いたり、小説を書いたりしてもいいはずだ。それらの中からなぜ私はパズルを選んだのか、と考えると、単に運命の巡りあわせとかの問題のようにも思える。

inputとoutputのバランス

inputとoutputのバランスという面もある。感動的なアートを見たり、面白い本を読んだりするのはいい体験だが、こういったinputばかりしていると、不思議とoutputをしたい欲の方が高まっていく。逆に、outputばかりしているとinputもしたくなる。不思議な関係に支配されている。このあたりは興味深い部分だ。

少し話が変わるが、私は、何かを学ぶ際や何かを考える際に、それを「誰かに教える」ことを想像しながら行うことが多い。本質的に教えるのが好きな面があるのかもしれない。一方で、他人のために時間を使うよりも自分のために時間を使いたい、という気持ちもある(不思議なことに)。プログラミングの世界ではラバーダックデバッグと言って、ぬいぐるみと対話(妄想)することでバグを洗い出す方法が有効であることが知られている。このあたりもinputとoutputの不思議な関係性と関係しているように思う。

「なぜinputをするとoutputをしたくなるのか」という風に疑問を書き下してみると、これは、「なぜパズルを解くとパズルを作りたくなるのか」という疑問と類似しているように思える。例えば面白い本を読んで感銘を受けたときに、知り合いに紹介したくなる。これは、自分が知ったことを他人にも知ってほしい、という感情だろう。inputとoutputは、ともに、自分と相手の知識レベル(知識の範囲、量)を同程度にしようとする行為である。どちらか一方だけやっているだけだと、知識レベルは包含関係になるだけで、同一にはなっていかない。ということは、もしかすると人は、自分と同類のものを増やすために、input/outputをするのかもしれない。ただ、それなら孤独な人間も積極的にコミュニケーションするようになるはずであり、先ほどの疑問の説明にはなっていない。結局、よくわからない。少し話がそれてきたようだ。パズルの作問に関しては、inputされたものをそのままoutputするわけではなく、新たに自分で作ったものをoutputするから、少し意味合いが異なっていそうだ。しかし、推しパズルを見つけた時に、たくさん作って応援する、みたいな場合は、input/outputの疑問と関係しているように思える。

承認欲求

承認欲求のようなものもありそうだ。outputをすることで、自分がこの世界に生まれた意味を見出せるような気がする、というもの。実際に、作ったものをインターネット上に公開したり、ノートに記録して置いたりすることはあるが、データを削除することはなかなかできない頑張って作ったパズルの問題を、どこかしらに参照できる形で取っておきたい、と思う。それは、もしかすると承認欲求なのかもしれない。ただ、この側面は意外と自己分析が難しい印象を持っている。