屁理屈を殺さない理屈

屁理屈について

その理屈はおかしい、けれど、説明できない

子供のころ、私は、木が風でなびいているのを見て、「風はなぜ吹くのか?」という質問をした。この質問をした時、私はまだ物理学を習っていなかったが、私の中にはなんとなくエネルギー保存則のような考え方自体は(経験則的に、かつ感覚的に)あって、どこからともなく風が吹き始めるのはおかしい、という風に感じたのである。

私の質問に対して「風が吹くのは木が揺れるからだよ」と言われて、え、それはおかしいのでは、と言ったが、相手は譲らず、結局その時はうまく相手を説得できなかった。考えてみると、その時の相手は、いわゆる共振現象のようなものをイメージしていたのではないかと思う。共振は「ちょっとかっこいい」題材としてたびたび話題になる身近な物理現象なので、小耳にはさんでいたのだろう。自励振動のような、それらしいものは確かにある。ただ、それは理解の二転三転するもっと先にある話で、その時には「明らかに、おかしい、けれど、説得できない」と思った。それが今でも記憶に残っている。

屁理屈が理屈を生んだ

こういうわけで、「相手の言っていることは、どこが間違っているのだろう」と突き詰めて考える機会が、時々あった。結論が先にあって、そこに至る論理を穴埋めしていくのは、邪道のようで論理的な思考の基礎なのだと思う。迷路もそうである。逆にたどるという発想を思いつかなければ、世界の見方としては狭くなる。

最初の例について、科学の知識があると、科学的立場から反論したくなるが、もう一つ、どちらかというと論理的なアプローチとして、「循環論法だね」というものもある。循環論法だね、というのは、相手の理屈が何かの結論を生み出すことを否定するが、相手の主張自体を否定する力はない。ただ、相手の理屈が屁理屈であることを説明するに足りているだけである。

「なんとなくおかしい」と「循環論法だね」の間には隔たりがある。「なんとなくおかしい」から「循環論法だね」に至るまでの過程で、どうにか相手の間違いを見つけたくて、頭を回転させる。それが、考える、ということにつながっていて、ある意味で教育的な屁理屈であったわけである。言い換えると、私は屁理屈に教育されてきた。屁理屈が今の私を生んだといっても良い。…(1)

屁理屈が屁理屈を殺した

屁理屈という言葉で思い出すのは、やはり子供のころ、何かもっともらしいことをちゃんと筋道立てて主張したにもかかわらず「屁理屈だね」で一蹴された記憶である。私がどれだけ丁寧に説明しても、相手は「屁理屈だね」の一言で、それ以降取り合ってくれない。そういうことがよくあった。どうしてか?屁理屈の子は屁理屈なのか?

どうも、人は、屁理屈という言葉を使った瞬間に、考えることを放棄するようなのである。それからまた、人が誰かに「屁理屈」と言った時、そこには侮蔑の意味合いも含まれているようだった。何も考えずに相手の主張を全否定できるのであるから、便利な言葉である。私は「屁理屈」という言葉が嫌いになった。屁理屈という言葉にプライドを傷つけられた。屁理屈のことは絶対に許さない、屁理屈に親を殺されたといってもいい。…(2)

(1)と(2)より、屁理屈が屁理屈を殺したことが示された。

よくできた屁理屈

屁理屈というものについて改めて考えていた。別に、屁理屈の存在自体が悪いものなわけではないのだと思う。「よくできた屁理屈」は、それについて考える人に、多くの気づきを与える。屁理屈という言葉を使う人間が悪いのである。屁理屈という言葉には、もうすっかり悪いイメージがついてしまっている。無理屈とか、不理屈とか、ほかの言葉に変えてもいいだろうが、誰かがネガティブな使い方をした瞬間に、結局は同じことになる。だから、「よくできた屁理屈」とか、「それは、いい意味で屁理屈だ」とか、わかりやすく言い方を変えるくらいだろう、屁理屈に敬意を払うことを忘れないように。私自身も、屁理屈を殺さないようにしたい。