我なしの説明とか

私は存在しない。これを説明する。

世の中には超常現象を信じる人が存在している。かくいう私も中学生の時などは「超能力が存在しないなんて証明できない」という論理の盾を構えていた。このような考えは馬鹿げている。

ここにAという命題とBという命題がある。Aという命題は多くの人によって検証が繰り返されており、毎回ゆるぎない事実を突きつけてくる。一方Bに関しては誰もそれをちゃんと検証できていないのに、まことしやかに囁かれている。このような状況で、例えば「AとBの両方を信じる」「AとBの両方を信じない」「Aを信じてBは信じない」というのは、論理的に筋の通っている考え方であるが、「Aを信じないのにBを信じる」というのは馬鹿な考えである。論理的な考えというのは、何らかの評価で得られた信頼度の高い方を選ぶことであるが、上記の考え方というのは、まるで「思考」の逆をいっている。それなら思考の意味がなくなってしまう。思考をしないのは人間にも劣る。

温暖化を信じないのに超能力を信じるようなのは馬鹿げている。これほど明らかであるのにもかかわらず、実際にはこのようなウソにはまってしまう人は割と多い。先にも述べたように私もそうであった。人は、面白い話が好きなのである。「こういう話があったら面白いだろうな」「こういう話があったら信じたいな」という無意識下の好き嫌いが人間にはあって、その感情にうまく適合させた作り話を発表すると、人は食いつくのである。

このように、真相は「人間は信じるべきでないものを信じる傾向にある」ということなのだ。もう少し慎重な書き方をするなら、「人間は信じるべきでないものを信じたいと思ってしまうことがある」である。その弱みに付け込んで、いい感じに作り話をすると大ヒットである。

人間は感情に動かされやすいという主張をもう少し強化しておく。世の中には論理的に物事を考えようとする人がいるが、実際には一人もいない。なぜならば、論理的に物事を考えようとするというのは、「論理的に物事を考える人でありたい」という感情に動かされているだけであるからである。

最後に、私は存在しないことを説明する。

誰しも「私は存在する」と思っている。科学に触れると、人は本質的に物質でしかないという考えに至る(至らない人もいるかもしれないが、人が物質であるという主張(A)の方が、心の重さをはかるような胡散臭い話(B)よりもずっと根拠がある)。ここで立ちふさがるのが自分の存在である。どう考えても私は存在しないはずなのに、実際には存在している。私という存在だけはどうにも納得することができない、というのはある種パラドックス的であり、ずっと心に引っかかっていた(ここでいう心というのは文学的表現であり、心臓のことではない)。この謎も、背景に感情があるということに気づくと、それほど不思議な謎ではなくなる。

私は、「私は存在していてほしい」と思っているのである。だから私が存在している根拠を見つけたくなる。しかし、私というのは、ほぼほぼ記憶と肉体でできており、記憶は物質的な肉体の(おそらく)内部に分布しているに過ぎない。私の持っている記憶は、「たまたま私の体の中に」含まれていて、それを私の肉体からアクセスする機構になっているだけで、もしかしたら他の人の体の中に私の記憶が入っていたかもしれない。私の肉体も厳密には系と相互作用をしており、境界が明確に定まっているわけではない。このことに気づくと、私は存在しないのだということが自然に腑に落ちるだろう。私は過去に少しつらいことがあったが、このことに気づいてからはだいぶ楽になった。

以上、私は存在しないと思いたい人による、記事を書きたいという感情に踊らされた記事であった。