2022/1/7から過去を見て成長しない日記

過去のつらい思い出による心のつらさが解消されてきた時、人は「乗り越えた」とか「成長した」とか肯定的に言おうとすることがある。

しかし、単に時間が経って感覚が鈍っただけに思えるし、そもそもつらい思い出なんてない方がいいと思う。私は、つらい思い出を成長のトリガーであるかのように言う主張は嫌いである。

自然災害などがわかりやすい例で、災害から時を経ると心の傷が解消されてくる(場合がある)が、本当の意味で人が成長する、というのはそれほど簡単でもないように思う。それに、そもそも成長というのは多面的に見ないといけない。災害に遭った経験をうけて、自分なりにいろいろと対策をしたり、対策をするように人々に呼び掛けたり、あるいはその人自身が社会の役に立つ貢献をしたり、というアプローチなら有効だろうが、それをすることによって他のリスク評価がおざなりになる可能性もある。特に衝撃的な災害に遭うと、盲目的にその災害リスクを過大評価してしまうことがある(リスクに備えることは重要だが、世の中にはあまりにもたくさんのリスクが存在するため、どのリスクにどの程度の力を注ぐのか考えるべきだろう)。もっと悪い「成長」の例として、対策が十分でなかったとして「偉い人」に対する批判をしたり、対策をしない人を馬鹿にしたりと、とにかく他人に厳しくなるケースも挙げられる(過去の自分を責めることができないので、代わりに他人を責めている面もありそうだ)。冷静に自分と過去を見つめてきちんと前進するようなアプローチを取っていたとしても、やがて行動に報酬を求めるようになり、お金や名声のために対策をし始めるという例もあるだろう(冷静な判断ができる人は、災害の衝撃による感情の揺さぶりが少ないため、自分が対策を行う理由を過小評価するようになると思われる)。

もっと身近な例で、カッターに指を触れさせるとけがをして痛い、ということを子供は学び、少しずつ現実世界の物理に適合した行動をとるようになる。でもそれが正しい成長なのかというのは真面目に考えてみると結構難しい問題を含んでいるように思う。人類は歴史の多くの常識を塗り替えてきた。人類は空を飛べないということを昔の人は証明しただろうが、仮定を崩すことで人は飛行を実現した。だから未来には、鋭利なものはけがをするリスクがある、というのが適切な評価ではなく、逆に鋭利なものは積極的に触った方が良いような時代が来るかもしれない。

ここまでは0人の事象と1人の事象の話だったが、2人以上の事象になるとまた話が複雑になる。例えば人種差別について考える。人種差別の被害にあった人は、何かそこから学べるだろうか?学ぶべきなのはむしろ人種差別を行った人物(or社会等)であると思える。こうなってくると複数の人物について、それぞれ「つらい/つらくない」の変数と「成長するべきである/成長するべきでない」の変数の2つ(こういった変数の判断は難しい問題であるが、今は話を単純化している)を持っていて、これの2つの変数は必ずしも同期しないことに気づく。

だから、つらい思い出というのは成長という概念と結びつけるべきでないと、こう思うのである。