2021/7/25の夜には眠気と戦う日記

推測と誘導というのはペアになる概念だが、推測について議論を展開するときはそれが定量的であるか定性的であるか、主観的であるか客観的であるかという風に慎重に話を進めるのに対し、誘導の場合は、解き手が慎重に話を進めていない可能性も確率的に視野に入れないといけないので、誘導の理論の方が結果として話が大きくなる面はある、と言えるかもしれないが、なんともふわっとした話である。

パズルを解くときに人は推測をする場面があるが、作り手はその推測を確率的に予想した上でそれをもとに誘導を作る。つまり誘導というのは二段階で確率の効果が入っているわけで、より高度な概念に思える。しかし一方で、パズルの解き手は作り手がどのような誘導をしているのかを確率的に予想した上で解く、ということも考えられる。そう考えてみるとこれは、だんだんと眠くなってきたが、作り手と解き手の対等な駆け引きで、経済におけるゲーム理論のような均衡があるだのないだのという話になるのかもしれない。

経済のゲーム理論の知識はまだあまりないが、以前どこかでうっすらと読んだ話だと、ゲームでは「任意」と「存在」の階層が関係しているということだったと思う。計算量の階層とも似ている面があって、ねむい、これは大変興味深い話である。そろそろ睡眠不足で何を書いているのかよくわからなくなってきたが、そう、推測と誘導はどちらが高度な概念なのかという話だったが、これに対する答えの方向性として、どちらかが優位であると主張するとつじつまが合わないように思えるわけで、つまり、現時点までに出ている検討案の中ではは、それらは対等であるとかんがえるのが一つの主張である、という話だった。

そこで、3つ目の概念として、今この、しょうもない議論を展開している私の存在がある。私は、推測や誘導している人について議論をしているわけで、それらの人から一歩引いて上から眺めているように見えるが、実際には、パズルの作り手や解き手が推測や誘導をする過程で、特定の演技をすることで私の推測や誘導に対する思考を推測したり誘導したりすることも原理的には起こりうる。そうするとこれもやはり私のこの生産性のない眠くなってくるようなやたらと長文の主張も、結局はそういった推測や、もう一つの、なんだったか、と同じような階層にあるのではないか。なら結局のところ、階層に上とか下とか、そういう話に意味はあるのだろうか。

これで思い出すのは、十分にパズル化される、という概念である。例えば裏をかく、という概念があるが、裏をかく、の裏をかく、という風に階層化することができて、同じロジックから両方の結論を導くことができるようになってしまうという状況を、十分にパズル化された状況と呼んでいる。これも階層の混乱という印象で、雰囲気が似ている。この例は私としては非常に面白く、いくつか異なる説明のアプローチを考えたことがあるのだが、一つの考え方は、相手の推論階層と自分の推論階層に差があるということを仮定していることに起因する矛盾であるという説である。つまり、相手の裏をかくという行為が論理的に成立するためには、相手よりも深い階層の推論規則が自分の中に存在しないといけない。それを、自分も、相手も、両者が仮定していれば当然矛盾は起こるのである。

元の話に戻ると、推測をする人と誘導をする人の階層も、このように、各人のもつ推論階層というのを明確に分離していくと、整理されるように思う。これはSFにおけるタイムトラベル方式の無矛盾化プロセスに少し似ている。このタイムトラベル問題をあえて怪しい構造にしてみるのも、一つの論理学を作るような面白さがあるのではとにらんでいるのだが、話がそれるしもう寝たいので辞めておく。 しかし、結局のところ「私は誰なのか」問題に突き当たることには懸念がある。これはまあ、おそらく難しい問題であり、ぐるぐると考えてもすぐに進展が得られるようんことでもないだろう。というわけで、今日はもう寝ることにする。